Just Wild Heaven You and I live

 まともに彼にさう云はれて初めて私は、自分自身の誠意も籠めて、ともかく危險の去るまで安全率の高い伊東へお越しになつたらと書いて送つた。だがその時のおばあさんには良郎といふものがあつた。風來坊の此次男はお酒と、それから四十過ぎて貰つてぢき別れた細君のことで、おばあさんにずゐぶん苦勞をかけたものだつた。がお酒のどうにもならなくなつてからは、俄然孝養到らざるなしになつてしまつた。おそらくひとり身の彼にとつては古陶のやうなおばあさんが凡ての寄りどころとなつたのであらう。茉莉花や菊をつくるのの巧かつた彼は、食糧事情が窮迫して來るにつれ、そら豆とか莢豌豆とか菠薐草とか、さういつたおばあさんの口に合ふものの方へ轉向して行つた。

 荒磯の春というものは、地上がまだ荒涼としている冬の内に、もうそろそろやって来ているのである。海草の芽は冬の内に生える。そしていよいよ陸上の春が来て、人間が春の磯遊びにゆく頃には海草もかなりのびて、新芽を喰いに来た魚族は更に深みへ移り、温い潮につれていろいろに移動する。
 その結果、この頃での磯釣は冬の内に初まる。十二月から翌年の二月へかけて、伊豆方面のブリ、ブダイ、イズスミ、クシロなぞの竿釣が行われ、初夏にはクロダイ、夏にはメイジダイ、ヒラマサ、秋も略同様なものが、三間から四五間の長竿で釣れるのであるから、近代の釣人がその強引にあこがれて、遠く出釣するのも無理はない。船でサヨリの掛釣とか、その他の魚の曳釣も行われるが、磯の興味は荒い岩礁や巌の上から、竿を満月にしぼって釣るところにある。
 従って荒磯を攻めるには、冬でも夏でもその附近の漁村へ一二日は滞在し、悉しくは漁夫に案内させるのがよいが、船釣ばかりしている漁夫は、又案外に磯の海溝や岩礁の潮流や、魚の附き工合いを知らぬもので、これはむしろ潜水に経験のある者とか、その附近の素人の釣人に尋ねる方が悉しく解る。

 夫れにどんな魚でも釣つて終つてからは、案外つまらないものであるが、あたりがあつて、ツツとあはして、ぐぐ、つつ、ぐいと持ち込まれ、それをためつこらへつ、ぢつと争ひ乍ら、銀鱗を飛沫の中からぬく時、その瞬間ほど魚が美しく、尊く、あらゆる全機能をもつて活躍してゐる時はない。どんな魚でも七彩の虹をもつ、金銀の閃光をもつ、そして水の青冥を截つて、初めて明るい気層へ跳ね出すのであるから、魚が驚いて、怒つて、反抗して、鰭をひらき、腮をふくらし出来るだけ跳躍を試る。それが愉しみで釣りといふものがやめられないのである。
 鮎はその王者である。形から匂ひから味覚から川の女王と謂はれてゐる。今年も予報通り行けばよいが、もうかなり遠出をしないと面白い現象にぶつからない。先づ東京府よりも静岡県から岐阜県である。鮎を五十年釣つてゐるといふ人でさへ、まだ鮎の深奥の習性は解らないといつてゐるから、むづかしいことも亦釣りの王者である。そこで成可く処女地らしい処を狙つて出掛ける。鉤づれのしてゐない鮎といふものは、全く渓谷の処女で、新らしい、荒い、美しいものである。それを一厘柄と謂はれる透明な細テグスで引き争ふのであるから、切られたり、引こまれたり、竿先を弓なりにして、手許まで引寄せ、玉網を入れて、手に握るまで、その触覚といふものが釣りの神会である。